優秀だと思われたい無能な奴ほど裏方をアピールしたがるありがちパターン。先頭になって何かやるだけの能力も甲斐性もないし、責任は一切取りたくないという逃げ癖メンタリティだけど、裏方だと言えばなんとなく必要とされてる感をおぼえられるんでしょうね、当人だけは。そもそも裏方が裏方を主張するということが矛盾なのに、そんなことには気づかない。この手の人たちは俺がいなきゃ回らない的なことが口癖になってるけど、世の中にはその人がいなきゃ回らない人物なんてそもそもいないんだけどね。

これまでにも数々の誤訳・珍訳そして名訳を生み出してきた『現代思想』誌だが、次のテクストはその中でもトップレベルの誤訳祭りだと昨今の人類学流行りに乗って読み返しながら改めて確認。

キャスパーイェンセン&ティエティル・ロジェ、2016、「『ドゥルージアンの交差点』序論」藤井真一訳、『現代思想 3月臨時増刊号 人類学のゆくえ』、pp.128-161。

なんか話題にすらなってないみたいだから敢えてここで指摘しておこうかと。

 

なぜかネットでボコボコにされている、

エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ、2013、「内在と恐怖」丹羽充訳、『現代思想』、pp.108-126。

なんて物の数に入らないくらい頭の体操になりますよ。

 

どうでもいいけど、清水高志は遅かれ早かれ炎上すると思ってました(小並感)