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 このブログを知っている数少ない現実社会の知り合いに、ダメなものをダメだと言うのは誰にでもできる、どこがどうダメかを指摘しないなら書く意味などない旨を言われ、それはそうだと感じながらも放言ブログに意味を求められてもなぁと思いつつ悶々と更新をしていなかったのだが、まあ真摯にテキストと向き合うのは自分の勉強にもなるし相手やここに迷い込んできた皆様のためにもなるのかなと考えたりもしてなんとなく書くのを再開しようと思い立つ。エクスキューズ。

 

 前にもダメだと言及したこの翻訳↓

キャスパー・イェンセン&ティエティル・ロジェ、2016、「『ドゥルージアンの交差点』序論」藤井真一訳、『現代思想 3月臨時増刊号 人類学のゆくえ』、pp.128-161。

 一読してやばいと思ったのは、英語の基本的な文法構造が取れていない点もさることながら、どうも訳者は"lines of flight"の意味を知らないようだということ。

 

原文(18):Indeed, Deleuze and Guattari take Bateson's own life as an illustration both of the creative lines of flight enabled by anthropology and of their uneasy relations to the state and capitalist machines

が訳文ではなぜか、

邦訳(145):実際、ドゥルーズガタリベイトソン自身の生涯を、人類学によって飛躍可能になった創造的ラインの実例、そして国家と資本主義機械との不安定な関係の実例として、ベイトソン自身の生涯を挙げている。

となっている。

 

これは自分で試訳するなら:

実際のところドゥルーズガタリベイトソン自身の生を、人類学によって可能となった創造的な逃走線、およびそれらの線が国家や資本主義機械と取り持つ不安定な関係を例示するものとみなしている。

とでもなろうか。

 

・まずlines of flightはいまどき高校生でも知っている通りD&Gの超有名な概念「逃走線」である。これを知らないばかりに、「飛躍可能になった創造的ライン」という謎の日本語がクリエイトされてしまっている。

・さらに二行目のtheirがこの(複数形の)線を指すことが理解されておらず、relationsが国家と資本主義機械の関係であるかのように誤訳され(あるいは誤魔化され)ている。theirが落とされている時点で重大な誤りであり、これは純粋に文法的な問題である。

・そして厳密な誤訳とは言えないかもしれないが、take A as Bは通常、「AをBと受け止める」とか、「AをBと考える」という意味であろう。「挙げる」という訳語の選び方には首を捻ざるを得ない。この文に続いて長い引用があるので意訳したものだろうか。

 

 さて、この短い一パラグラフをざっと見ただけでも3つの誤訳があるのだが、この翻訳は最初から最後まで終始この調子である。文化人類学者がドゥルーズを知らなくても全く問題はない。英語を知らなくてもおそらく問題ないのだろう。だが、ドゥルーズを知らない者がドゥルーズに関する論文を翻訳するというのは、学問に携わるものとして極めて不誠実で問題のある態度だと言わざるを得ない。

 このようなことをされると、やはり文化人類学というのはいい加減な学問であって、知ったかぶりで他分野の概念を濫用する人々の集まりなのだと(まさにこの論文の主張の通りではあるのだが)考えざるを得なくなるのである。

 

 次回以降も気が向いたら、一文ずつ検討してみたい。