あれから暇を見ていろいろ翻訳ものも読んできたけど、やはり「『ドゥルージアンの交差点』序論」はどの一文を拾い読みしても誤訳しかないという点で実に稀有な一本だったと改めて感じる。

 

例えば前までやったところの次の箇所で、ヴィヴェイロス・デ・カストロの引用をしてるP130の下段一行目。

 

原文は

'little magic word "and" ... is to the universe of relations as the notion of mana is to the universe of substances. "And" is a kind of zero-relator, a relational mana of sorts - the floating signifier of the class of connectives - whose function is to oppose the absence of relation, but without specifying any relation in particular' (Viveiros de Castro 2003: 1-2, italics in original).

 

これが藤井氏にかかると次のようになる:

「少々魔術的な言葉『アンド』……それは、マナ(mana)の観念が物質(実体substances)の世界と関係しているのと同様に、諸関係の世界と関係している。『アンド』はある種のゼロ関係子(zero-relator)であり、結合に関する浮遊するシニフィアンである。その機能は、どんな関係も指示することなしに関係の不在に対置することである」[Viveiros de Castro 2003: 1-2 強調は原文]。

 

little magic wordを少々魔術的な言葉と訳すセンスにも脱帽だが、大きな問題はそのあとのA is to B, C is to Dの構文が取れてないように見えるところ。しかもその次の「a relational mana of sorts」まで訳抜けしてるので、実体-マナ/関係-アンドという対比が全くわからなくなっている。

原文で言われているのは、マナが実体なき実体であるのに対して、アンドは関係なき関係なのだということ。だからこそアンドの戦略を取ることで、予め特定の関係を措定することなく生成変化を追うことができると言っているので、ここがわからないと論文全体の意味が取れなくなってしまうと思うのだが。。。

 

ちなみに拙訳:

「小さな魔法の言葉『アンド』……が諸関係の世界に対して取り持つ関係は、マナの観念が実体の世界に対して取り持つ関係と同じである。『アンド』は一種のゼロ関係子であり、ある種の関係的なマナ、つまり接続の領域における浮遊するシニフィアンである。その機能は関係の不在に抗することだが、それはいかなる個別の関係も特定することはない」

 

また暇があればやります。ちょっと古くなってきたので、ほかに面白いネタがあればそっちに移るかも。