「『ドゥルージアンの交差点』序論」試訳 (P130・下段第1パラグラフ・7行目)

続きのところです。

 

原文:

This lack of preconceived specificity ('without specifying any relation in particular') points in the direction of an experimental attitude because it demands of research that it investigates just what is connected with what in each specific situation.

 

藤井氏訳:

「どんな関係も指示することなしに」という、あらかじめ考えられた特異性を欠くということは、実験的態度の方向を指し示す。なぜなら、ある特定の状況において何と何がつながっているのかをまさに調査する必要があるからだ。

 

拙訳:

このように前もって特定されるものがない(「それはいかなる個別の関係も特定することはない」)ということは、実験的な態度を取るように我々を導く。なぜならそれぞれ個別の状況下で、まさに何と何が接続しているのかそれ自体を精査するような研究が必要となるからだ。

 

・ここは確かにちょっと訳しにくいんですが、原義に忠実かつこなれた日本語にするというのが鉄則かと。

 

・「あらかじめ考えられた特異性」? 「あらかじめ考えられた」はネット辞書の一番最初に出てくるpreconcievedの訳語をそのまま持ってきたんですかね。lack of preconceived specificityは、要するに「前もって関係が特定されない」ということなんで、多少意訳的でも意味の通る日本語にするべきかと。

 

・in each specific situationが「ある特定の状況」になるというのもよくわからない。situationが単数形だから一つの状況だと勘違いしたのでしょうか。通常はeach+単数形で「それぞれの」になります。

あれから暇を見ていろいろ翻訳ものも読んできたけど、やはり「『ドゥルージアンの交差点』序論」はどの一文を拾い読みしても誤訳しかないという点で実に稀有な一本だったと改めて感じる。

 

例えば前までやったところの次の箇所で、ヴィヴェイロス・デ・カストロの引用をしてるP130の下段一行目。

 

原文は

'little magic word "and" ... is to the universe of relations as the notion of mana is to the universe of substances. "And" is a kind of zero-relator, a relational mana of sorts - the floating signifier of the class of connectives - whose function is to oppose the absence of relation, but without specifying any relation in particular' (Viveiros de Castro 2003: 1-2, italics in original).

 

これが藤井氏にかかると次のようになる:

「少々魔術的な言葉『アンド』……それは、マナ(mana)の観念が物質(実体substances)の世界と関係しているのと同様に、諸関係の世界と関係している。『アンド』はある種のゼロ関係子(zero-relator)であり、結合に関する浮遊するシニフィアンである。その機能は、どんな関係も指示することなしに関係の不在に対置することである」[Viveiros de Castro 2003: 1-2 強調は原文]。

 

little magic wordを少々魔術的な言葉と訳すセンスにも脱帽だが、大きな問題はそのあとのA is to B, C is to Dの構文が取れてないように見えるところ。しかもその次の「a relational mana of sorts」まで訳抜けしてるので、実体-マナ/関係-アンドという対比が全くわからなくなっている。

原文で言われているのは、マナが実体なき実体であるのに対して、アンドは関係なき関係なのだということ。だからこそアンドの戦略を取ることで、予め特定の関係を措定することなく生成変化を追うことができると言っているので、ここがわからないと論文全体の意味が取れなくなってしまうと思うのだが。。。

 

ちなみに拙訳:

「小さな魔法の言葉『アンド』……が諸関係の世界に対して取り持つ関係は、マナの観念が実体の世界に対して取り持つ関係と同じである。『アンド』は一種のゼロ関係子であり、ある種の関係的なマナ、つまり接続の領域における浮遊するシニフィアンである。その機能は関係の不在に抗することだが、それはいかなる個別の関係も特定することはない」

 

また暇があればやります。ちょっと古くなってきたので、ほかに面白いネタがあればそっちに移るかも。

どうも長らく間があいてしまってすみません。

更新しなかったのには3つほどわけがありまして、一つ目は海外出張なんかもあって純粋に忙しかったこと。二つ目に暇な時間はちょっと真面目に人類学を勉強してみたこと。三つ目には藤井氏が書いた他の論文などに目を通してみて、いろいろ察してしまうところがあったこと。

 

特に個人的には三つ目の点に関して(いちいち指摘しませんが、興味があればCiniiなどで検索してみてください)、なんだか溺れる犬を叩いているようで迷っていたのですが、やはりテクストと書き手の人格は別物だと考えなおし、あくまでも誤訳の修正を通して言論の世界へのささやかな貢献になればと思って再開することにします。

とはいえ帰国はもう少し先になりそうですので、また近いうちにお目にかかれますことを。

「『ドゥルージアンの交差点』序論」試訳 2 (P128・第2パラグラフ)

続き。訳文P128(原文P1)、第2パラグラフです

 

原文:While ideas related to and inspired by Deleuzian themes have emerged in
fields/areas such as actor-network theory and non-humanist theory, there has been
little sustained exploration of the specific challenges and possibilities that Deleuzian
thought could bring to STS.

藤井氏訳:ドゥルーズの諸テーマと関連付けられ、その諸テーマによって喚起される考え方が、アクターネットワーク論や非人間主義の理論のようなフィールド/領域に出現するようになった一方で、ドゥルーズの思考を科学技術論へと持ち込むような挑戦や可能性を継続的に探究する試みはほとんどなかった。

拙訳:ドゥルーズの論点に関わり、それに触発された発想がアクターネットワーク論や非人間主義理論といった領域/分野に現れてきた一方で、ドゥルーズ的な思考がSTSに対してもたらしうる具体的な異議や可能性についての継続的な探求はほとんどされていない。

※コメント:ちょっと訳しにくいですが、探求されてこなかったのはドゥルーズ思考の持ち込みではなく、ドゥルーズ思考の持ち込みがもたらす意義についてです。

 

原文:And while Deleuze and Guattari made use of anthropology 'in free variation' relatively few anthropologists have made use of their work in turn:

藤井氏訳:そして、ドゥルーズガタリが人類学を「自由に変奏して」利用したのに対し、彼らの仕事を活用してきた人類学者は比較的少ない。

拙訳:またドゥルーズガタリが人類学を「自由に変異」させながら利用した一方で、反対に彼らの仕事を利用するのは比較的少数の人類学者に留まっていた。

※コメント:ここはおおむね大丈夫。free variationは英訳MPの3章に出てきて、邦訳だと「自由に変異」となってますね。

 

原文:The distinction between STS and anthropology evoked here is somewhat elusive. Indeed, several Deleuze-inspired anthropologists are, precisely, anthropologists of science.

藤井氏訳:ここで想起される科学技術論と社会人類学との間の区別はいくぶん理解しにくい。現に、ドゥルーズに触発された人類学者の幾人かは、科学人類学者たちであった。

拙訳:本稿で提起されているSTSと人類学のあいだの区別はいささかわかりにくい。実際のところ、ドゥルーズに触発された人類学者の一部は、厳密に言うと、科学人類学者である。

※コメント:原文は「社会」の入っていない「人類学」ですね。気持ちはわかります。

 

原文:However, it is not our ambition to attempt to disentangle these complicated relations. Rather, our general argument is that Deleuzian analysis offers many opportunities for rethinking important issues both in and among social anthropology and STS.

藤井氏訳:しかしながら、われわれが野心を持っているのは、これらの入り組んだ諸関係を解きほぐすことではない。むしろ、われわれの議論が目指すのは、社会人類学と科学技術論の内に、また両者の間にある重要な論点を再考するための多くの機会が、ドゥルーズの分析によってもたらされることを示すことである。

拙訳:だがわれわれが目指すのは、こうした複雑な関係を解きほぐすことではない。全体としてのわれわれの主張は、ドゥルーズ的な分析が社会人類学STSそれぞれの内に、またそれらのあいだにある、重要な問題について再考する多くの機会を提供するということだ。

※コメント:

・「野心を持っている」?

・原文イタリックは訳文にも反映すべき

 

原文:It offers, we suggest, new insights into methodology, epistemology and ontology in these fields. It facilitates an arguably increasingly important rethinking of the relations between science, technology, culture and politics.

藤井氏訳:それ〔ドゥルーズの分析〕は、これらのフィールド〔社会人類学と科学技術論〕における方法論と認識論と存在論に対して新たな洞察を提供するのだ。それは、科学と技術、文化、政治との間の諸関係に対して、ますます重要となっている再検討を促す。

拙訳:このことがもたらすのは、両領域における方法論、認識論、および存在論についての新たな洞察だと考えている。それは間違いなく重要性を増しつつある、科学と技術、文化、政治の関係の再検討を促す。

※コメント:おおむねOK

 

原文:And it suggests different ways of conceiving the links between these fields and the practices they study.

藤井氏訳:そして、それはこれらのフィールドと彼らが研究している実践との間のつながりを考えるための、従来とは異なる方法を提示する。

拙訳:そしてこのことはこれらの領域と、研究対象となる実践とのあいだのつながりについて異なる考え方を提示する。

※コメント:ここは訳しにくいですね。まあOK