どうも長らく間があいてしまってすみません。

更新しなかったのには3つほどわけがありまして、一つ目は海外出張なんかもあって純粋に忙しかったこと。二つ目に暇な時間はちょっと真面目に人類学を勉強してみたこと。三つ目には藤井氏が書いた他の論文などに目を通してみて、いろいろ察してしまうところがあったこと。

 

特に個人的には三つ目の点に関して(いちいち指摘しませんが、興味があればCiniiなどで検索してみてください)、なんだか溺れる犬を叩いているようで迷っていたのですが、やはりテクストと書き手の人格は別物だと考えなおし、あくまでも誤訳の修正を通して言論の世界へのささやかな貢献になればと思って再開することにします。

とはいえ帰国はもう少し先になりそうですので、また近いうちにお目にかかれますことを。

「『ドゥルージアンの交差点』序論」試訳 2 (P128・第2パラグラフ)

続き。訳文P128(原文P1)、第2パラグラフです

 

原文:While ideas related to and inspired by Deleuzian themes have emerged in
fields/areas such as actor-network theory and non-humanist theory, there has been
little sustained exploration of the specific challenges and possibilities that Deleuzian
thought could bring to STS.

藤井氏訳:ドゥルーズの諸テーマと関連付けられ、その諸テーマによって喚起される考え方が、アクターネットワーク論や非人間主義の理論のようなフィールド/領域に出現するようになった一方で、ドゥルーズの思考を科学技術論へと持ち込むような挑戦や可能性を継続的に探究する試みはほとんどなかった。

拙訳:ドゥルーズの論点に関わり、それに触発された発想がアクターネットワーク論や非人間主義理論といった領域/分野に現れてきた一方で、ドゥルーズ的な思考がSTSに対してもたらしうる具体的な異議や可能性についての継続的な探求はほとんどされていない。

※コメント:ちょっと訳しにくいですが、探求されてこなかったのはドゥルーズ思考の持ち込みではなく、ドゥルーズ思考の持ち込みがもたらす意義についてです。

 

原文:And while Deleuze and Guattari made use of anthropology 'in free variation' relatively few anthropologists have made use of their work in turn:

藤井氏訳:そして、ドゥルーズガタリが人類学を「自由に変奏して」利用したのに対し、彼らの仕事を活用してきた人類学者は比較的少ない。

拙訳:またドゥルーズガタリが人類学を「自由に変異」させながら利用した一方で、反対に彼らの仕事を利用するのは比較的少数の人類学者に留まっていた。

※コメント:ここはおおむね大丈夫。free variationは英訳MPの3章に出てきて、邦訳だと「自由に変異」となってますね。

 

原文:The distinction between STS and anthropology evoked here is somewhat elusive. Indeed, several Deleuze-inspired anthropologists are, precisely, anthropologists of science.

藤井氏訳:ここで想起される科学技術論と社会人類学との間の区別はいくぶん理解しにくい。現に、ドゥルーズに触発された人類学者の幾人かは、科学人類学者たちであった。

拙訳:本稿で提起されているSTSと人類学のあいだの区別はいささかわかりにくい。実際のところ、ドゥルーズに触発された人類学者の一部は、厳密に言うと、科学人類学者である。

※コメント:原文は「社会」の入っていない「人類学」ですね。気持ちはわかります。

 

原文:However, it is not our ambition to attempt to disentangle these complicated relations. Rather, our general argument is that Deleuzian analysis offers many opportunities for rethinking important issues both in and among social anthropology and STS.

藤井氏訳:しかしながら、われわれが野心を持っているのは、これらの入り組んだ諸関係を解きほぐすことではない。むしろ、われわれの議論が目指すのは、社会人類学と科学技術論の内に、また両者の間にある重要な論点を再考するための多くの機会が、ドゥルーズの分析によってもたらされることを示すことである。

拙訳:だがわれわれが目指すのは、こうした複雑な関係を解きほぐすことではない。全体としてのわれわれの主張は、ドゥルーズ的な分析が社会人類学STSそれぞれの内に、またそれらのあいだにある、重要な問題について再考する多くの機会を提供するということだ。

※コメント:

・「野心を持っている」?

・原文イタリックは訳文にも反映すべき

 

原文:It offers, we suggest, new insights into methodology, epistemology and ontology in these fields. It facilitates an arguably increasingly important rethinking of the relations between science, technology, culture and politics.

藤井氏訳:それ〔ドゥルーズの分析〕は、これらのフィールド〔社会人類学と科学技術論〕における方法論と認識論と存在論に対して新たな洞察を提供するのだ。それは、科学と技術、文化、政治との間の諸関係に対して、ますます重要となっている再検討を促す。

拙訳:このことがもたらすのは、両領域における方法論、認識論、および存在論についての新たな洞察だと考えている。それは間違いなく重要性を増しつつある、科学と技術、文化、政治の関係の再検討を促す。

※コメント:おおむねOK

 

原文:And it suggests different ways of conceiving the links between these fields and the practices they study.

藤井氏訳:そして、それはこれらのフィールドと彼らが研究している実践との間のつながりを考えるための、従来とは異なる方法を提示する。

拙訳:そしてこのことはこれらの領域と、研究対象となる実践とのあいだのつながりについて異なる考え方を提示する。

※コメント:ここは訳しにくいですね。まあOK

「『ドゥルージアンの交差点』序論」試訳 1 (P128・第一パラグラフ)

では一番最初から行きます。訳文P128(原文P1)、第一パラグラフです

 

原文:Gilles Deleuze was a thinker whose main concern was creation and differentiation, and according to whom new assemblages constantly emerge, reconfiguring reality in the process.

藤井氏訳:ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)は、生成と差異化に主要な関心を寄せる思想家であった。彼によれば、生成と差異化のその過程の中で現実を再構成しながら新たな組み合わせが絶えず現れてくる。

拙訳:ジル・ドゥルーズは、創造と差異化に主要な関心を寄せる思想家であった。彼によれば、絶えず新しいアッサンブラージュが現れ、その過程の中で現実を再構成してゆく。

※コメント:creationは「創造」です。

 

原文:Rather than accepting already established philosophical categories and distinctions he reassembled thought in new and inventive ways, thereby producing conceptual hybrids with unusual qualities and different potentials.

藤井氏訳:既存の哲学的カテゴリーや区別を受け入れるのではなく、むしろ独特な性質と異なる潜在性とから概念的ハイブリッドを作り出すことで、斬新かつ独創的な方法で思考を組み立てなおした。

拙訳:既に確立された哲学的カテゴリや区分を受け入れるのではなく、新しい独創的なやり方で思考を組み立てなおし、そのことによって尋常ならざる質と異なった潜勢性とを備えた概念的ハイブリッドを生み出してきた。

※コメント:

 ・therebyの前が原因、後ろが結果になります

 ・潜在性(virtual)と訳しわけるならpotentialは潜勢性の方がいいんじゃないかなぁ

 

原文:The basic elements in Deleuzian thought are not static but entities in becoming. Consequently, the questions to be asked is not what something is, but rather what it is turning into, or might be capable of turning into.

藤井氏訳:ドゥルーズの思考の基本的要素は静的なものではなく、生成途上のものである。それゆえ、問われるべきなのは、あるものが何であるのかではなく、むしろ潜在的/現働的に変化しつつあるものが何なのかである。

拙訳:ドゥルーズ思想の基本要素は静的ではなく、生成変化するエンティティである。すなわち問われるべきは、それが何であるかではなく、むしろそれは何へと変化するか、あるいは何へと変化することができるかである。

※コメント:どこから潜在的(Virtual)/現働的(Actual)が出てきたのだろう。百歩譲って「現働的/潜在的」なら全く理解できないというわけでもないが……

 

原文: Practice, knowledge, politics, culture and agency are seen as continually produced in heterogeneous processes without definite control mechanisms. Further, such processes traverse modern distinctions including the human and non-human, the material and ideal and the theoretical and practical.

藤井氏訳:実践や知識、政治、文化、そしてエージェンシーは、異種混淆の諸過程の中で、明確な制御機構なしに絶えず作り出されるものとして認められる。さらに、そのような諸過程は、人間と非人間、物質と観念、理論的なものと実践的なものといった近代的な区別を横断する。

拙訳:実践、知識、政治、文化、そしてエージェンシーは、厳密な制御メカニズムを欠いた異種混淆的なプロセスの中で絶えず作り出されるものとみなされる。さらに、こうしたプロセスは人間と非人間、物質と観念、あるいは理論と実践を含む近代の区分を横断する。

※コメント:ここはおおむねOK

 

原文:This volume raises the question of what a Deleuzian approach might entail for social anthropology and for science and technology studies (STS).

藤井氏訳:本書が提起するのは、ドゥルーズのアプローチが社会人類学と科学技術論に及ぼすものは何かという問いである。

拙訳:本書が提起するのは、ドゥルーズ的なアプローチが社会人類学と科学技術論(STS)に対してもたらすものは何かという問いである。

※コメント:ここもOK

 

それではまた次回

 

<参照文献>キャスパー・イェンセン&ティエティル・ロジェ、2016、「『ドゥルージアンの交差点』序論」藤井真一訳、『現代思想 3月臨時増刊号 人類学のゆくえ』、p.128。

 このブログを知っている数少ない現実社会の知り合いに、ダメなものをダメだと言うのは誰にでもできる、どこがどうダメかを指摘しないなら書く意味などない旨を言われ、それはそうだと感じながらも放言ブログに意味を求められてもなぁと思いつつ悶々と更新をしていなかったのだが、まあ真摯にテキストと向き合うのは自分の勉強にもなるし相手やここに迷い込んできた皆様のためにもなるのかなと考えたりもしてなんとなく書くのを再開しようと思い立つ。エクスキューズ。

 

 前にもダメだと言及したこの翻訳↓

キャスパー・イェンセン&ティエティル・ロジェ、2016、「『ドゥルージアンの交差点』序論」藤井真一訳、『現代思想 3月臨時増刊号 人類学のゆくえ』、pp.128-161。

 一読してやばいと思ったのは、英語の基本的な文法構造が取れていない点もさることながら、どうも訳者は"lines of flight"の意味を知らないようだということ。

 

原文(18):Indeed, Deleuze and Guattari take Bateson's own life as an illustration both of the creative lines of flight enabled by anthropology and of their uneasy relations to the state and capitalist machines

が訳文ではなぜか、

邦訳(145):実際、ドゥルーズガタリベイトソン自身の生涯を、人類学によって飛躍可能になった創造的ラインの実例、そして国家と資本主義機械との不安定な関係の実例として、ベイトソン自身の生涯を挙げている。

となっている。

 

これは自分で試訳するなら:

実際のところドゥルーズガタリベイトソン自身の生を、人類学によって可能となった創造的な逃走線、およびそれらの線が国家や資本主義機械と取り持つ不安定な関係を例示するものとみなしている。

とでもなろうか。

 

・まずlines of flightはいまどき高校生でも知っている通りD&Gの超有名な概念「逃走線」である。これを知らないばかりに、「飛躍可能になった創造的ライン」という謎の日本語がクリエイトされてしまっている。

・さらに二行目のtheirがこの(複数形の)線を指すことが理解されておらず、relationsが国家と資本主義機械の関係であるかのように誤訳され(あるいは誤魔化され)ている。theirが落とされている時点で重大な誤りであり、これは純粋に文法的な問題である。

・そして厳密な誤訳とは言えないかもしれないが、take A as Bは通常、「AをBと受け止める」とか、「AをBと考える」という意味であろう。「挙げる」という訳語の選び方には首を捻ざるを得ない。この文に続いて長い引用があるので意訳したものだろうか。

 

 さて、この短い一パラグラフをざっと見ただけでも3つの誤訳があるのだが、この翻訳は最初から最後まで終始この調子である。文化人類学者がドゥルーズを知らなくても全く問題はない。英語を知らなくてもおそらく問題ないのだろう。だが、ドゥルーズを知らない者がドゥルーズに関する論文を翻訳するというのは、学問に携わるものとして極めて不誠実で問題のある態度だと言わざるを得ない。

 このようなことをされると、やはり文化人類学というのはいい加減な学問であって、知ったかぶりで他分野の概念を濫用する人々の集まりなのだと(まさにこの論文の主張の通りではあるのだが)考えざるを得なくなるのである。

 

 次回以降も気が向いたら、一文ずつ検討してみたい。

なんかだんだん落合陽一は好きになってきたけど、彼にメンションして媚売ってる奴らには虫唾が走るわ