哲学のおっかないところは業界内の変人たちに加えて、素人の哲学マニアのおっさんみたいなのが一定数いて、しかも議論の筋とは関係ない部分でいちゃもんをつけてくるところだと思う。

 

社会学マニアのおっさんとか生態学マニアのおっさんとか量子力学マニアのおっさんとかあんまり聞いたことないもんな。歴史学マニアならいるか。

翻訳の良さにはいくつかのレベルがある。最高はもちろん原文の文意が完璧に日本語へと写し取られていて、それだけで完結できるもの。ただしこれはほとんどありえない。

 

だから基本的には、日本語が多少不自然でも原文の構造を保持しつつ訳語なんかが一貫性を持っていて、原文と訳文のその位置だけを対照したときに意味が取れるものを良い翻訳と呼ぶわけだ。

 

訳語が一貫していなかったり原文の構造を思いつくまま無造作に入れ替えたりすると、一文だけ比較しても意味が通らなくなって、結局原文のコンテクストまで参照しなくてはならなくなる。これは悪い訳。

 

だが世の中には、そもそも原文の文法構造を取り間違えていたり、主張を理解していないばっかりに正反対に訳していたりする本当にどうしようもない翻訳もある。英語もできず、その分野にも精通していないのに翻訳なんかすんなよと思うのだが、これがまた結構多くて腹が立つのだ。

 

何が言いたいのかというと、メイヤスー『有限性の後で』の翻訳は辛うじて及第点であるということだ。

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎知のトップランナー50人の美しいセオリー』を手に取り、パラパラと中を見て、買うのをやめる。

 

ちゃんと読んだわけじゃないけど、5人に1人くらい「美しいセオリーなんてない」とか「美しいセオリーってなんだ」とかって言ってて笑う。そらそうだ。そんなある種の予定調和の中、堂々と「美しいセオリーなんてない」をタイトルにしちゃってるM木K一郎って人は、ほんとに薄っぺらい逆張りしかできないんだなというか、むしろ編集者はそこを期待してオファーしたんだろなとか、アカデミズム業界の仄暗い面がいろいろと垣間見えて面白いことは面白いかもしれない。