翻訳の良さにはいくつかのレベルがある。最高はもちろん原文の文意が完璧に日本語へと写し取られていて、それだけで完結できるもの。ただしこれはほとんどありえない。

 

だから基本的には、日本語が多少不自然でも原文の構造を保持しつつ訳語なんかが一貫性を持っていて、原文と訳文のその位置だけを対照したときに意味が取れるものを良い翻訳と呼ぶわけだ。

 

訳語が一貫していなかったり原文の構造を思いつくまま無造作に入れ替えたりすると、一文だけ比較しても意味が通らなくなって、結局原文のコンテクストまで参照しなくてはならなくなる。これは悪い訳。

 

だが世の中には、そもそも原文の文法構造を取り間違えていたり、主張を理解していないばっかりに正反対に訳していたりする本当にどうしようもない翻訳もある。英語もできず、その分野にも精通していないのに翻訳なんかすんなよと思うのだが、これがまた結構多くて腹が立つのだ。

 

何が言いたいのかというと、メイヤスー『有限性の後で』の翻訳は辛うじて及第点であるということだ。